※ネタバレありです。
 まほプリという作品を楽しめない筆者が、色々思うところを書き連ねているだけです。
 他作のプリキュアのことも少し書きます。
 なので、読まなくても構いません。

・Febri Vol.36について
 下記のインタビューを掲載していました。
 ○朝日奈みらい、十六夜リコ、花海ことはの声優
 ○キャラクターデザイン ・宮本絵美子
 ○シリーズディレクター(監督)・三塚雅人
 ○プロデューサー・内藤圭祐

 作中個人的に疑問に感じた部分について、大体納得できる内容が書かれていました。気になった部分だけ書きます。
 なるべく自分の感想と、インタビューの発言が混ざらないようには気をつけます。
 発言内容は要約しております。もしかすると、まほプリを楽しめない人間であるが故の曲解をしているかもしれませんので、その点ご留意いただけたらと思います。


●声優たちのインタビュー内容
 作中、みらいはリコが好きな理由を語りません。学校の授業科目については好きな理由を一つ一つ言っているのに、リコに対してはそれが無いのです。
 なぜみらいはリコの事が好きなのかという疑問に関しては、主要人物の声優たちも疑問に感じた部分だと答えられています。それは、みらいだけでなくリコの声優も感じていたとのことです。
 みらいの声優はこの点、演技に困って監督(シリーズディレクター)に何故みらいはリコが好きかは質問されたことがあるそうです。
 リコの声優も「何故、みらいはリコでないとダメなのだろう、リコは突然見捨てられないだろうかと不安になる」と冗談混じりではありますが仰っています。
 ただ、みらいがリコを好きな理由については、監督自ら「ない」と回答しているそうなので、これ以上の突っ込みは野暮となります。描かれることは無いと言うことが証明されたからです。

 それと、一部(ドクロクシーを倒してことはが仲間になるまで)のオープニングの歌詞で「性格真逆」と歌われている部分。そんなことは無いだろう、二人ともむしろ似ているんじゃないだろうか。と思われる描写がかなりあります。
 この、みらいとリコは性格が真逆でないことは、リコの声優も当然気づかれていたようです。
 むしろ、「細かいところで似ている部分があると感じている」と発言されていました。そりゃあ、気づかないはずがないよなと思いながら読んでいました。
 まあ歌詞については忠実である必要があるかというと、そうではないだろうとは思うのです。無理に忠実にしようとした方が無理が生じるでしょうから。ただ、自覚はされていたという事だけ知っておけば良いのかなと。

 また、はーちゃんがドクロクシーを弱体化させた後にいなくなってしまった21話、ことはとなって見つかった22話。この間に一ヶ月間が経過しているとのことです。その間、ずっとみらいたちははーちゃんの捜索をしていたとのこと。それが、みらいの声優によって説明されています。
 これ、どうなんだろうなーと思いながら読んでいました。何でその発言が声優から飛び出してくるのかもすごく気になりますが、それは置いておいて。本編では、冬服で捜索している一枚絵を何枚か用意して、その後夏服になっている二人という描写を入れるだけで説明できた場面のような気もするのです。ただ、今作ではそれをしなかったのでした。
 でもこれも、シリーズディレクターの方針で、「二人がつらい思いをしている表情をなるべく描かないようにしている」旨が言われているので、これも突っ込むのは野暮と言えましょう。そうなら書くだけ無駄というか、面白いかどうかは別として方針通りなら仕方ないというか。

●シリーズディレクターのインタビュー内容
 作中疑問に思ったことがシリーズディレクターにより、本当に大抵説明されています。
 「今作の魔法は基本的に戦闘では役に立ちませんが、それは魔法を生活を便利にするための物として扱っているから」なのだそうです。
 つまり、電化製品と同じような物であるということなのでしょう。だから作中、使わないことの意義を説明する場面が多いのです。バーベキューをした13話でも、そのようなことは示されていました。……余談ですがその回はリズの包丁の構え方がおかしいのに周りが持てはやしているという、女児向けアニメらしからぬ描写がある名物回だったりします。猫の手の構えくらいやればいいのに、みたいな話。
 そして、「戦闘でも魔法は使用しないようなるべく徹底しており、だからプリキュア自身も肉弾戦が多い」のだとのことです。
 そういうことなら、それで良いと思うのです。作中示されてはいないものの、そうだろうという予測はできていたので。

 問題は、電化製品と同じような生活を便利にする物として扱っていることでしょう。
 これ、魔法は電化製品と違い、「学校に通ってまで学ぶ技能」として本編で扱われているのが非常に厄介。そのせいで、学校で学んだことを使わないことが尊いという、矛盾が生まれてしまっている。学校で学ぶこと以外にも大切なことがあるというスタンスのようには見えないので、ものすごく違和感を覚えるのです。
 何せリコは偉大な魔法使いになるのが夢なのに、その魔法の使用を非として扱ってしまっている。で、ある意味面白いのが魔法を思う存分使っている場面も描かれていること。そのせいで、どっちを主体にするのかわからなくなってしまっているという。
 ここの部分って、恐らく根幹を成す設定を間違ったのだろうなと思います。もう何も書くまいとなります。

 というか、これってナシマホウ界側で考えてもおかしいんですよね。家庭科でミシンの使い方を学校で学んだとして、それを私生活で利用するとします。その際、ミシンを使わずに手で縫えと言っているわけですから。ていうか、本当にそういうつもりなのかも知れませんね。個人的にはバカ言ってんじゃないよって、率直に思ってしまいますが。
 ただ魔法界にも、実技といったリコの発言から、魔法以外の授業もあるようです。なので数学を勉強していてそれを日常生活で使うなとか、そこまで書いてしまうといちゃもんレベルにはなるのかなと言う気がします。

 戦闘に関しても、「あまり戦術とか使命とかを持たせる気は無い」といったことを仰っていました。
 この点については、そんな制約を課しながら面白く描くのは至難の業だろうなと、筆者は思うだけですね。四苦八苦するけれど、頑張っていただきたいと願うのみです。

 気になったのは「最初、リコはみらいのフォローをする立場として描かれるはずだった」という一連の発言ですね。元々はみらいが考えなしに決定し、それをリコがツッコミながらもフォローするはずだったのだとか。それが補習のエピソードを加えたためにリコに魔法が苦手という要素が加わった。そのせいで、みらいは完璧なキャラクターとなって、みんなをぐいぐい引っ張っていくキャラクターになったとのこと。
 これ、大失敗だと思うのです。このせいで、みらいはどうしてリコが良いと感じたのか、という部分に説得力が無くなってしまったのかなと。
 また、補習で魔法を使うための特訓を描いてしまったことも、魔法を使わないことの大切さという要素に致命的な傷をつけてしまったように思いました。
 個人的には今になっても、補習をした意味が本当にわからないです。

 補習という展開がすべてをぶち壊しているとしか思えないのです。はっきり言ってリコは、今作最大の被害者だと思います。まほプリの方針の被害者とでも言いましょうか。
 いっそそのことがばれないよう、上記の発言はすべきでなかったとすら筆者は思います。
 下記のようなことがあったのではと妄想まがいのことを考えてしまいます。
1.魔法界の話を先にやることが決まる。
2.みらいを連れ出すため、リコがナシマホウ界に訪れる必要がある。エメラルドがナシマホウ界にあるかもという設定を用意。
3.「プリキュアの使命感を持たせない」方針があるから、リコがエメラルドを探す理由は個人的なものでないといけない。だから、ナシマホウ界に来る動機が「補習逃れ」になった。
4.リコに補習をさせるため、魔法を苦手にさせなくちゃならなくなった。


●プロデューサーのインタビュー内容
 プロデューサーの言によると、「子供たちにはリコへ感情移入をして欲しいという思いがある」とのことでした。魔法使いという、動きで真似をしやすい人に感情移入して欲しいと。
 だから、成長を描くのはリコの方が多いのでしょう。
 ……みらいもキュアップラパパと唱えて魔法を使用している時点で、破綻している発言ではあります。恐らく、当初はそうだったのだという事なのだと思います。

 インタビュー内容に関しては以上となります。


・名前の由来推測
 手短に書きます。今作は二部構成になっており、前半と後半で敵が様変わりする。二部からはキャラクターの名前を、嫌な感情を表す表現から取らなくなっているのが印象的。
 ○ドクロクシー: 恐らく「毒々しい」という言葉の響きから。
 ○バッティ: bad(不快な)という英語のもじり。
 ○スパルダ: スパルタのもじり。
 ○ガメッツ: がめついのもじり。
 ○ヤモー: 「もう嫌」→「いやもー」→「ヤモー」
 ○ヨクバール: 欲張るのもじり。
 ○ドンヨクバール: 貪欲のもじり。
 ○ムホー: 無法のもじり。
 ○ラブー: アブラカタブラのもじり。
 ○デウスマスト: デウスは「神」と言う意味で、マストは英語の比較最上級「most」だと考えられる。
 あるいは、機械仕掛けの神「デウス・エクス・マキナ」のもじりか。混乱した状況をまとめるため、ある要素を出現させる作劇手法のことを言う言葉。


・魔法界の設定について
 262代続いている青果店がありつつ、魔力によりめちゃくちゃ長生きな校長がいるという世界観。
 文化レベルはナシマホウ界と同等であり、ナシマホウ界のことを勉強するために忍び込んでいる人々がたくさんいる。
 青果店が何年で代替わりしているかが、ものすごく気になる世界となっています。ちなみに20年で代替わりしているとしても、最低でも5000年は魔法界が存在することとなります。魔法界の歴史が短ければ短いほど、青果店の代替わりの頻度が増加するという修羅の道。

 ただ、学業に関してはナシマホウ界と同じようにしていると見受けられるのです。
 魔法学校の生徒は全員寮へ入るのであろう事が、28話現在までで判明しています。6話で魔法学校に入るため、リコとリズが離ればなれになったことが示されました。そして、27話で寮があることがはっきりと示されたためです。
 また、男子と女子で別々に授業を受けているであろう事も、28話で示されています。男子生徒が女子部といった言葉を口にしていることから。
 魔法の絨毯の免許はみらいと同年代の生徒でも取得できることが示されたのも28話。二部に入ってから魔法界の掘り下げが開始されたことがわかります。

 季節は島によって固定されており、暦の価値観はナシマホウ界と同じであるとのこと。ここら辺の設定は恐らく、ナシマホウ界から文化を取り入れたのだと言うことで良いのでしょう。作中で示しても面白いとは思います。


・キュアフェリーチェについて
 個人的には大失敗だと思う。
 世話をしていた子供が自分よりも年上のお姉さんになるなんていう、キャラクターの立ち位置のぶっ壊れを味わわせる意味は無いだろうよと。
 プリキュアって女児にとっては憧れの存在というか、守ってくれるお姉さんみたいな存在なのでは無いかと思っているわけです。それで妖精は、最初の描かれ方によって異なるのだと思います。
 ドキプリのダビィをお世話する対象としては見ないでしょう。ハピプリのリボンもお目付役。パフはお世話をする妖精で、アロマは口うるさい友達みたいなところでしょうか。
 それで、はーちゃんは間違いなく、ドキプリのアイちゃんやフレプリの無限のメモリー……じゃなくてシフォンと同じ赤ちゃん枠というか、パフよりも一層お世話が必要な妖精というポジションでしょう。

 これ、ダメだと思うんですよね。大人が見る分には、「こんなに立派に成長して」と思えるかも知れませんけど。自分の子供のようにお世話をしていた子に、半年間で見た目上の年齢を追い越されて、プリキュアになったんだから憧れろっていうのは、通らないのではあるまいか。
 これ、恐らくキュアモフルンはセーフなのです。モフルンは一緒に世話をしてきたという立ち位置のキャラクターだから、例えプリキュアに変身しようともぶれない。外見も大人びた雰囲気でなく、可愛らしさを徹底させているのは、ここら辺の事情を考慮したからではないかという気もするのです。
 まあ、自分は女児じゃないので、本当のところ見ている女の子たちがどう感じているかはわからないのですけどね。

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。



Febri Vol.36

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過去感想は下記より
アニメ感想:2016年夏期まとめ