※ネタバレあり。酷評記事のため、今作が好きな方は参照注意です。
  「映画プリキュアオールスターズ みんなで歌う 奇跡の魔法!」のネタバレも含みます。
  あと、スタッフの関係上、前作Go!プリンセスプリキュアのことにも触れます。ご了承ください。


 筆者は、この作品を見に行くとき、きっとこんな感想を抱くだろうなと言う思いを持って、映画館へ向かいました。
 親御さんの視線を痛々しく思いながらも、抱いた感想はやっぱり、その最初に考えたものの通りでした。自分が今作に対して捻くれている部分があるのは、大いに認めた上で、そのまま書きます。

 映画と本編は別物として考えるべきだ。

 本編で首を傾げた部分は、この映画においてはほぼありません。そのほぼから抜け落ちた部分だって、しっかりと補完の描写が入ります。
 それらの演出というか描き方というか、そういった文脈は、本編において私の読解力では読み取れなかったものです。だから例え同じキャラクターが、同じ声で、同じ関係性で動き回っていたとしても、私は躊躇いなく「別物として考えるべきだ」としか書けないのです。
 でも、本編がある以上、筆者はそれを切り離して今作を考えることができません。だから、この感想もそれを大いに含めたものとさせていただきます。

 そして更に書くなら、本編と違って演技が自然だったと言うことは書かなくちゃいけないと思います。もうそれだけで、今作は充分だと思います。本編に比べて内容はしっかりしていましたが、例えもしも内容がぐちゃぐちゃであったとしても、演技に不自然さがないのなら、もうそれで良いように思うのです。

 あ、ちなみに短編と長編の二本立てです。前作「Go!プリンセスプリキュア」の三本立てを洗練させた作りになっています。やっぱり三本立ては時間配分が大変だよなという意味で。

 それでは、各作品毎に、ネタバレも含めて書いていこうかなと思います。映画を観ていない人は本当に注意してください。
 あと、少しだけ前作ゴープリに触れることをお許しください。考察する上で必要だったりするのです。




・キュアミラクルとモフルンの魔法レッスン!
 ショートフィルムですから、あらすじは省略いたします。
 至極単純に書けば、子供たちに配付されたミラクルモフルンライトの使用方法を教えるための3DCGアニメです。
 ミラクルとモフルンがライトを使って魔法の掛け合いっこをするという内容になっています。あんまり書きすぎるとあらすじじゃなくなってしまうので、内容はこの辺で。

 去年の「キュアフローラといたずらかがみ」よりも、更に進化した3DCGを楽しむことができます。
 また、本編の内容についても進化が見られていて、「ライトの使用方法」をわかりやすく説明することに注力した内容となっています。
 「キュアフローラといたずらかがみ」では、無声アニメだったこともあるので仕方ないのですが、子供がライトの振り方に迷う場面があったのですが、今作ではそのようなことはありませんでした。一応書いておきますが、作品の面白さの優劣の話ではありません。
 で、今作ではしっかりと声を出して、ライトの使用方法を伝えています。正直なところ、恐ろしいくらい贅沢な映像だなと思います。ライトの振り方一つを示すのに、ミラクルやモフルンをものっすごく可愛らしい仕草で描いているわけですから。

 また、前作ゴープリが好きな人には、ちょっと嬉しくなるであろう描写もありました。なんとミラクルがモフルンに魔法をかけられて、フローラの姿になるのです。そして名乗り口上もバッチリとやる。
 まあ、まほプリが嫌いな人が見たら、嫌がるのかも知れないですけども。筆者は声は違えど動くフローラを久々に見られて、単純に嬉しかったですね。子供たちも喜んでいたようで、ほくほくとした気持ちになりました。


・映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!
 くまもんはすごい。率直にこれだけ書いておきます。くまもんが出てきたときの子供たちの反応足るや。盛り上がってました、ほんの数秒なのに。これはもう、くまもんを引っ張ってきたプロデューサー神木さんの功績ですね。

 で、まあ率直な感想は、今作は魔法つかいプリキュア映画版第一話である。っていったところですかね。まあ理由は追々。
 あらすじ、物語の核心まで全部書いてしまうので本当にご注意ください。参照注意です。








++あらすじ++
 みらいたちは流れ星を見て願い事を考えていた。リコやことはが願い事をあっさり見つける中、みらいは自分が何を願うべきかわからない。そんなとき、校長先生からミラクルモフルンライトが届く。今日は百年に一度の大魔法フェスティバル。どんな願い事でも叶えてくれる「願いの石」が復活するのだという。
 もちろん、みらいたちはそれに参加し、催し物を楽しむ。

 願いの石は、人々がライトを灯し願い事を胸に抱いたとき、その中から一人を選んで願いを叶えるという。そして、選ばれたのはモフルンだった。しかしモフルンはみらいとリコとことはの願い事を叶えて欲しいと、願っていたのだった。
 その中、願いの石を狙うダークマターが襲いかかる。強力な力に為す術もないプリキュアたちは、モフルンを攫われてしまう。

 みらいはモフルンを探すため、一人でどこかへ行ってしまったのだった。時系列がずれますが、ここで済ませておきます。そして、一人で探し回った結果、疲弊してしまう。落ちてしまいそうになったところで、リコが駆けつける。
 そして、リコが、モフルンだけでなくみらいまでいなくなってしまうことを恐れていることを知るのだった。
 それで、願い事が思いつかなかったみらいも、自分の願いに気付くのだった。

 モフルンは目覚めると、そこはダークマターのアジトだった。すぐさま逃げ出したモフルンは、クマたちが住む森へ辿り着く。そこで思わずモフルンは嬉しさのあまり遊んでしまう。
 その中で、黒い姿をしたクマ、クマタが姿を現す。モフルンと子供のクマ以外は、彼を怖がって逃げてしまう。

 クマタが魔法を使えるため、クッキーをたくさん出せることにモフルンは喜ぶ。クマタはそんなモフルンに、ずっとここへ居るように言うのだった。
 モフルンはみらいたちのことを思いだし、それを断る。するとクマタはダークマターの正体を現すのだった。そして、無理矢理願いを叶えさせようとする。

 そこに、みらいが駆けつける。最初、モフルンはみらいを守るために、帰りたくないと嘘をつく。しかしみらいは言うのだった、自分の願いは「みんなと一緒にいることなのだ」と。
 みらいが追い詰められそうになったとき、モフルンは「みらいを守りたいと願うのだった」。そして、キュアモフルンへと変身を遂げる。
 プリキュアと共に、ダークマターを圧倒するキュアモフルン。しかし、ダークマターが抱えていた思いを知ったモフルンは、その拳を胸に受けて石が割れてしまう。
 そして、モフルンはただのぬいぐるみに戻ってしまう。

 ダークマターもまた、自分の行いに後悔し涙する。彼もまた、寂しかったのだ。彼はその力のために、みんなから恐れられ、ひとりぼっちだった。だから、モフルンのように、彼を恐れず、優しいとまで言ってくれた存在はいなかったのだ。

 モフルンはミラクルライトの力で復活する。ダークマターから溢れ出た負の思い、シャドウマターに挑んでいく。
 ミラクルライトの力で撃退し、世界に平穏が戻る。
 そしてクマタは、森のクマに受け入れてもらうことができたのだった。
++++++++

 こう言った内容でした。細部が異なっていると思いますが、ご了承ください。

 もう、ただただ書くことなんて一つしか無くて、これもう別物だろうという、それだけなのです。
 冒頭、みらいが主要人物の紹介を始めるのです。私、「朝比奈みらい」って。この時点で個人的にこの作品はもう、第一話を作っているのだなと言う印象しか持てなくなったというか。
 だって、そんなのわかりきっていることじゃあないか、と思ってしまったというか。改めてそれを示すと言うことに、仕切り直しの意思を感じざるを得なかったというか。

 あと、率直に言って今作、面白かったかというと、そりゃあ面白かったのです。主要スタッフにゴープリのダブル田中と神木プロデューサーがいるから依怙贔屓しているのだとか、そういうわけじゃないです。そりゃあ色目を抜く事なんて不可能ですが、それでもそんなこと抜きにしても、面白かったですよ。
 魔法の描写はアイデアがふんだんに盛り込まれ、バトルシーンも魔法を使いまくり細部にアイデアをちりばめた迫力ある戦闘を存分に盛り込んでいます。一見の価値があります。
 何より、本編で使われても良いような展開をたくさん盛り込んでいるのに驚きます。そこに、迫力ある戦闘シーンですよ、こりゃあ楽しくて当たり前です。

 また、本編で描くべきだったけれど描くことができなかった物を、一つ一つ拾っていきましたという作品になっていました。だから、心情的にもしっくりくる作品となっています。
 まほプリじゃなく、改めてキャラクターを新規で立ち上げて作ったら、もっと面白い物になったのではないかって言う、良くわからない感想が浮かんできます。……正直、本編を観ずにこの作品だけ視聴する人が、一番まほプリを楽しめるのではないか、くらいに考えてしまっているわけです。確実に筆者は、まほプリという作品に毒されているから。
 多分、まほプリを知らずに見ていたら、「本当に面白かった!」とか率直に感じて、終わっている気がします。だから、書いている今も、ものすごく複雑な気持ちなのです。
 それくらい、この映画での登場人物たちは再構成されています。性格が違うわけではないのす、しかし、別物なくらい再構築されているのです。特にみらいが。

 一話の「キュアップ・ラパパ、あっちへ行きなさい」も拾われています。より意味合いのわかりやすい形で。みらいが何故、一話でそんな言葉を連呼したのか、この映画を観ると良く理解できます。
 映画では、シャドウマターの力が魔法界を襲います。その際、もう何も為す術がない状態というとき、みらいが前に進み出て、呪文を唱えるのです。言うなれば、願いを込めて、力一杯、唱えるのです。どうしようもなくても、それでも、心は負けない。そういう意味合いがあったのです。こんなことをされたらもう、複雑な気持ちにもなります。

 しかもですね、何せ前述の通り、演技が自然なのです。もう、これ以上に書くことなどありません。演技が自然だった。演技が自然だった。演技が自然だった。もうこれだけで、まほプリにとっては至上です。
 まあそれだけじゃあっさりし過ぎなので、色々書いていきます。

 今作、布石をしっかりとちりばめた作品になっています。
 みらいは最初、流れ星に願う物が決められません。願い石に願うことも決められず、結局ライトも灯さないのです。で、そのことを、リコがしっかりと指摘するのです。これがまほプリという作品において、どれほどの快挙か。
 そして、みらいはモフルンと離れ離れになることで、ようやく自分の願いに気付くという展開となっています。これが本編を視聴している自分にとっては、ものすごく複雑な感情を起こさせるのです。
 「これは本編でやるべきことなのじゃないの?」と言った具合に。正直、「願い」なんて「夢」と似たような物です。言い換えただけです。本編で「夢」という言葉が使われているから、重ならないように「願い」という言葉を使っただけではないかと言う気すらします。
 しかもそれを、前作で徹底的に「夢」のことを描いたスタッフたちが制作するって。何というか、唸ってしまう物がある。

 ただ、気になる点がないわけではありません。
 みらいがモフルンを探して一人でどこかへ行ってしまい、疲弊するわけです。それをリコとことはが助けるわけです。みらいは疲れているのに、なんでリコとことはは疲れていないのだろう、とか。
 まあここら辺は、水晶玉のキャシーに訊いたのかなとか、脳内補完が利くので問題無いようには思います。

 モフルンがみらいたちのことを忘れてクマたちと遊びだしてしまうシーンも、ちょっとモフルンらしくないなと言う気はするのですよね。モフルンだったら、みらいたちの元へ戻ることを優先するのではないか、そのことを忘れはしないのではないか、と言う気がしてしまう。何せ、挿入歌さえ流れますから。恐らく、そういう要求があったシーンなのだろうなと言う、邪推はしてしまいます。
 まあ、子供たちはすごく楽しんでいたシーンなので、あんまりここは強く書くべきではないのかなと言う気がします。

 後はやっぱり、クマタの扱いですかね。無から有を生み出すことができるほどの魔法が使えるクマタは、畏怖の対象だった。伝説でもそのように記されてしまっていた。長い間避けられていたクマタは、その心の中に邪悪な年を宿すようになってしまっていた。そして、その恨みによって、「魔法つかいを全て消し去る」願うまでになってしまっていた。というのが今作の作りとなっているわけです。
 それは良いのです。みらいたちもそんなクマタに対して、真っ向からぶつかっています。名前を呼んでいます。本当にどうでも良いことのように思いますが、今作において敵キャラクターの名前を呼ぶことは重要なことなのです。
 本編を視聴しているからこそ、このことが良くわかるという。

 で、そのクマタの結末はやっぱり微妙だと思うのですよね。正直なところ、雰囲気で押しきった印象を受けました。
 モフルンが一緒に来ようと言っているのに対して、クマタは断ります。そこまでは良いのです。離れていても友達だと言うことを示すシーンだから。
 ただ、その後、クマに受け入れられたシーンが良くないように思う。クマタは元々心優しい存在だったのが、避けられ続けたために歪んでしまった存在です。だから、ここで受け入れられたのは「改心したから」ではないのです。すると、魔力が無くなったからと解釈すざるを得なくなってしまう。そこが残念でした。
 クマタに対して誰かが謝らなければいけなかった状況を、避けてしまったような気がしました。クマタがモフルンを通して自分の行いを悔いているからこそ、そこが強調されてしまいます。多分、リコが代表して謝ったりすると、ここら辺が納得できたのかなと言う気がしました。

 モフルンとクマタの関係は、すごく巧かったと思います。クマタは無から有を生み出せるほどの、強力な魔法使いです。それは恐怖の対象なのです。しかしモフルンは恐れません。
 これは、恐ろしい魔法が使えても関係ないのだということ、モフルンにとっては友達なのだと言うことが強調されていたように思うのです。
 つまり相手がどんな人物だからって、友達になることを拒むような判断基準にはならないと言うことなのでしょう。もちろん、嫌な奴とか悪い奴は、話が別ですよ? そういう所とは関係ない、異国とか、才能とか、容姿とか、そういう部分の話です。
 本編における、みらいがリコを好きになる理由なんてないっていうのは、そういうことだったのではないかなと思いました。要は、今回のモフルンとクマタとのケースとは逆の話なのです。みらいは、リコが魔法使いだから友達になったのではなく、リコだから友達になったのだということを示したかったのかなと。

 なんというか、映画を観たことで、本編側で描こうとしていた物が見えてきた気がします。パッと目の前が開けたというか。まほプリを楽しんでいる人たちが、何を見ていたのかが少しだけ見えてきたというか。
 少し詳しく書いてみます。リコが素敵な子だから、みらいは友達になりたかったのです。素敵な子としての説得力が足らないと言うことは、ひとまず置いておいて。
 だってリコは、みらいの大切な友達であるモフルンを守ろうとしてくれた人なのですから。一話でそういう場面は描かれていましたからね。みらいはその行動によって、リコを好きになったのです。リコが魔法使いだから好きになったのではないのです。「みらいがリコを好きになった理由なんてない」っていうシリーズディレクターの発言は、きっとそういう意味なのです。
 ……まあ、理由あるじゃねえかっていう話ですけど。要は、そういう素敵な部分だけじゃなくて、すぐにおだてられる部分とか、自尊心が強いところとか、そういう悪い部分も全部含めて「リコだから」としたかったのかなと思いました。リズに対して「リコはいつもあんな感じ」とつい喋ってしまうのも、そういう意味合いがあったのかも知れないなと。これなら、理由なんてないというのも、頷けるのかなと。

 ともかく今回の映画で、翻訳してもらった気がしました。
 で、ますます、映画版は第一話だなと思う訳でした。

 あと、やっぱり設定がふわふわしているのだなと感じたところが一点。モフルンが離れ離れになると、ミラクルとマジカルは変身を維持できませんでした。
 しかし、「映画プリキュアオールスターズ みんなで歌う 奇跡の魔法!」ではむしろ、モフルンと離れ離れになっていようが、どれだけ痛めつけられようが、ソルシエールの元に辿り着くまでは一切変身が解けていないのですよね。まあ、細かいところではありますし、スタッフの違いもあるから仕方ないことではあるのですが、一応指摘。

 そういった細かいことを書いてはいるけれど、ちゃんと面白い映画です。戦闘シーンなんか、もう遣りたい放題なので、一見の価値ありです。
 モフルンの戦闘だけでなく、ミラクルやマジカルの戦闘も洒落にならんほどアイデアに溢れています。フォームチェンジは当然として、そのフォームチェンジにキュアモフルンも参加する。ムーンストーンで多重バリア、アメジストで敵の攻撃をワープさせてかわす。トパーズの黄色の球を使って分身を作り、その分身が他のスタイルに変身して、一斉攻撃。もう書き切れないほど、やり過ぎと言って良い状態になっています。
 そういった部分を見るだけでも、楽しめる内容になっていました。視覚的に楽しめる作品、とでも書きましょうか。なので、そこだけ見るのでも、充分な作品なのかなと。

 あと、最後に例の如く春の映画の宣伝が行われていました。「映画プリキュアドリームスターズ!」だそうです。歴代のプリキュアから、「ゴープリ」「まほプリ」の二世代前までを登場させ、新しいプリキュアと代替わりをするといった内容になるのかなと。本編でフェアリードロップが使われていなかったのは、こういう意図があったからなのかも知れませんね。
 和風な雰囲気が目に映える、そんな映像になっていました。今から楽しみですね。個人的には、ゴープリが登場するからですけども。



魔法つかいプリキュア! Blu-ray vol.1

 ※上記以外の物でも良いので、リンク踏んで何かを買っていただけると励みになります。



過去感想は下記より
アニメ感想:2016年秋期まとめ