※プリキュアに関してだけでなく、色々な作品のネタバレあり。
 また、筆者はゴープリ信者であり、まほプリを楽しむことができていない人間です。まほプリに対して批判的なことも書きます。というか、自分が苦手に感じている別作品のことも槍玉に挙げます。
 そういう物が耐えられないという方は、読むのを遠慮された方が良いと思います。
 ……あんまり酷い書き方をしないようには心掛けます。


■前置き
 最終回を終えましたから、分析ではなく、ただただ思いを綴っていこうと思います。
 元々、筆者は正式名称「魔法つかいプリキュア!」という作品の感想を書く時、原則として規則のような物を設けていました。まほプリという作品が、他作品よりも劣っているという書き方をしないことです。「比較しないこと」ではなく、「劣っていると書かないこと」です(これはどんな物の感想を書く上でも、極力守りたい方針としています)。
 「魔法つかいプリキュア!について思うことを雑記」では、ONE PIECEといった作品よりも劣っていると書いていますが、それは「考察」ということで例外としていました。
 本来、上記の記事でも書いていますが、ゴープリとまほプリは比較するのに適している作品です。それはプリキュアという作品の方針が、そうさせています。プリキュアは基本、次代の作品を描く際に、前作とは違う方向性にする事が多いからです。そして、筆者の見解ではありますが、ゴープリとまほプリは見事に正反対の作りを持つ作品になっていると感じています。
 けれど、筆者はあまりこの二作品をブログ内で比較したことがありません。それは、正反対な物を比較する意味を感じないからです。何というか、野球とサッカーみたいな、同じ球技だけど比べても仕方の無い分野というか。
 例えば、「野球は手でボールを投げます。比べて、サッカーは足でボールを蹴ります」なんていう論調は、意味が無いだろうという話です。自分にとってゴープリとまほプリを比べることは、その分野に当たります。

 確かに自分はまほプリという作品を楽しめていませんでした。それはもう、「筆者には合わない」の一言に、「だって」という理由が山ほど積み重なるほど。そういった部分は大体各話の感想に書き連ねているので割愛いたしますが。
 もちろん、その不満があるが故に、まほプリの感想で他作品の話を持ち出そうものならば、筆者の感性の元にまほプリが他作品よりも劣っている点を書き連ねてしまう恐れもありました。
 もっと書けば、まほプリには比較される資格がないとすら思っています。ガメッツが浄化された後のデザインがたったの一話で差異が生じる。対してゴープリは、パフは窓拭きが下手だという描写が徹底されている。白金に指摘されるまでは、水を絞らない雑巾で窓拭きをするよう描かれている。しかも、15話と40話(更に言えば、過去の回想だった)という時間の流れがあってなお、矛盾させていない。
 本来、名前が与えられているほどのキャラクターを描写するなら、後者であるべきです。それができている物とできていない物とは、比べるべきではないと考えるからです。

 そういった事情があったわけですが、今回はひとまず、取っ払って書いてみようと思います。前述したように分析とかをするわけではありませんが、思いの丈だけでも。今まで、これはともすると優劣の判定になってしまうのではと考え、書かずにいたことも、躊躇わずに書いていきます。
 なるべく読みやすいよう心掛けますが、雑記と言うことで、鼻で笑いながら読んでいただければ幸いです。面白いとか読みやすいとか、そんな風に感じていただけた部分だけ読んでいただければと思います。
 ……きっとまほプリが「プリキュア」でなかったら、こんな長文は書いていないのだろうなと、そんなことを思います。

■ゴープリとの出会いについて
 個人的な話をさせていただきますが、「ハピネスチャージプリキュア!」という作品を自分は楽しめなかった部類の人間でした。
 ただ、この楽しめなかったというのはむしろ、残念という思いが強かった思いがあります。
 大風呂敷が広げられて、それを畳むことができなかったと言う印象だったのです。だから自分は今でも、ハピチャは1年間ではなく、もっと長い期間放送できたなら、全ての伏線や要素を回収して、もっと良い作品になれていたのではないかと思うわけです。
 それはともかくとして、残念であったことには変わりなく、プリキュアを視聴するのを止めようかなと思っていたわけです。それはにわかである自分の、真っ当な末路だったのだと思います。スマイルプリキュアから視聴を始め、ドキドキプリキュアに入り込めなかった奴だったので。ただ、ちょうど再放送をやっていたので、初代プリキュアとフレッシュ、ハートキャッチは視聴しました。それらはどれも、素晴らしく面白かった。
 でまあ、一話だけ見ようと思った、それが出会いです。そして、アホみたいにはまりました。

■まほプリとの出会いについて
 ゴープリとの出会いにより、自分の中である決心が生まれました。どんな内容だろうと、プリキュアならば全部視聴しよう、というおかしな決心です。
 で、まほプリ。一話から、言葉にし難い違和感がありました。二話で、その違和感が増しました。三話は、少しだけ安心しました。しかし、四話で裏切られました。そして五話で、確信しました。
 今作は最低限の道徳観を備えていない作品なのだと。みらいの屁理屈は全て肯定されるのだと気付いたのは、もっと後のことですが、この時点で感じた物は最後まで貫き通されました。
 間違いなく、これだけは言えるので書いておきます。
 もしも「ハピネスチャージプリキュア!」の後にまほプリが放送されていたならば、私は間違いなく視聴を止めていただろうと言うことです。恐らく、二話あたりで。
 そういう意味では、ゴープリはある種罪な作品だったのかも知れません。

■ゴープリについて
 堅実というのが、今作が多くの方に持たれている印象だと思います。
 堅実に作ると言うことが、むしろ、どれほど難しい挑戦であるか。みたいなことを筆者は考えますが、それは置いておいて。
 言うなれば、歴代屈指の、「良い子」のプリキュアと言ったところでしょうか。すごく嫌な書き方ですけど。しかし原則、プリキュアになる人物は「良い子」ばかりです。ただ今作は殊更、そこに力が入っているとでも言いましょうか。
 また、ストーリーの矛盾の無さも今作では指摘されます。言ってしまえば、ここまでストーリーがしっかりした作品もそう多くありません。50話ある内で、見逃しても問題無い回は数えるほどしかないでしょう。その数えるほどの回も、決して本筋から外れるようなことはなく、今作の一大テーマ「夢」を掘り下げるための大事な要素となっています。
 言ってしまうと、こう言った作品は見落とした人間に容赦がありません。自然と篩い落とす形になってしまいます。そして皮肉にも、プリキュアという作品のターゲット層は非常に篩い落とされやすい子供たちなのです。自分も記憶を辿ると、「赤ずきんチャチャ」やら「こどものおもちゃ」やら「デジモンアドベンチャー」やらを、各話を平気で見落としていたのを覚えています。
 ただ、それでもプリキュアという作品は基本的に一話で一つの話が完結するので、見落としてもある程度問題がない作りにはなっていると思います。また、自分は幼い頃、ストーリー物の作品を何話か見落としていても気にせず視聴していた覚えすらある。ならば、しっかりと一連の話を作っておくに越したことはない、と言う気はします。ただ、見落としたら見なくなってしまう層を切り捨てる形にはなるので、難しい話なのだとは思います。
 グッズを購入してくれる層は、言い方を悪くすれば後先考えない刹那的な人が多いのではないか、だからそういう方たちに向けた作品作りをすれば良いのではないか。とかも思ったりしますけど。そういう作品が面白くなるかどうかと言うと、個人的には疑問です。……きっと、答えは出ないでしょう。

 こういう作品は大人向けなのだから深夜アニメで放送すれば良い、と筆者は思いません。何せ深夜アニメもストーリー物はあんまり売れません。ある例外を除けば、一話区切りで見て面白い作品の方が、平均的には売れます。
 ある例外とは「魔法少女まどか☆マギカ」や「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」といったモンスター級の作品を言います。好みの違いこそあれ、「輪るピングドラム」や「氷菓」や「凪のあすから」とか「花咲くいろは」とか「四畳半神話大系」とか「ピンポン」とかが、こう言った作品よりも売れていないから劣っているとは思わないのです。どれも素晴らしく、面白い作品たちです。

■まほプリについて
・そもそもの筆者の立場
 まほプリから筆者のブログを見てくれるようになった方って多いと思うのです。なので、自分も考え方をここでさらりと示しておきます。
 本来は、「こう考えれば、楽しめるんじゃない?」という脳内補完をするようにしています。その証拠にまほプリに対しても、四話の感想までは柔らかい言葉を使っています。前述の通り五話で諦めたわけですが、その後も何かしらの「面白く感じるようにする」工夫は心掛けていたと断言できます。
 それでも無理だったから、あんな辛辣な内容になったのです。なので、他作品に関しては「その評価は甘いのではないか」という感想を書くこともあると思います。
 そんな感じです。

 で、今作については実を言うと、47話の時点で熱を失っていました。
 というか、総括は47話の感想で書き終えてしまっていたと言うところでしょうか。47話でビル群が破壊されたことが有耶無耶になった時点で、もう今作は終わっているのです。
 犠牲者はいたのだろうか、いたとしたらその犠牲者はどうなったのだろうか。遂に、取り返しの付かない被害が出た。そのことにみらいたちはどう感じるのだろうか。
 その疑問に答えない作品に、何を期待する必要があるのか。
 今まで踏み込まなかったからこそ均衡が保たれていた物が、クライマックスだからと言うだけで崩されてしまった気がしたのです。

・まほプリとは何だったのか
 上記の事柄は置いておいて、今作は良くも悪くもみらいが全てだったと思います。
 キャラ作りに失敗したONE PIECE的だとかルパン三世的だとか、20話あたりに考察を書きました。最後まで、その感覚は変化することがありませんでした。
 そう考えるとある意味、今作にも徹底されていた物があったと言うことなのでしょう。で、それを好む人もいたのだろうなと思います。
 まあ極論すると、みらいが「好きなら正解、嫌いなら間違い」なのです。だから視聴者側も、「みらいが好きなら楽しいし、みらいに違和感を覚えればつまらない」のです。

 そもそも何で筆者がみらいのことばかり書こうとするかというと、個人的に自分は世界観の設定なんざ「キャラクター作り」に比べたら重要ではないと思っているからです。世界観の設定をおざなりにして良いという意味ではないのですけども。
 まずキャラクターありきという話で、まほプリは個人的に、その「まず」につまずいている。だから世界観の設定について語るに至らないということです。
 「みらい」に、私は説得力を感じられませんでした。彼女はモフルンが大好きだったそうです。それは、産まれたときから一緒にいたからだそうです。
 こんなとき、私はこう考えてしまいます。「じゃあどうして彼女は、ぬいぐるみの繕いとか、そういう類のことが得意でないのだろう?」と。大事にしていても、持ち歩いたぬいぐるみはどうしても汚れたりほつれたりするでしょう。じゃあそのための対処ができるだけの技能を、みらいが持っていなければおかしいはずです。
 祖母に直してもらっていたことにする? 本当に? 本当にそれで良いの? 大切なお友達のモフルンを、自分の手で直してあげることもできないの?
 トイ・ストーリー2で、ウッディの腕がちぎれかけてしまう話が思い出されます。最後に彼の腕はどうなったでしょうか。筆者は、モフルンに同じことが起こったとき、みらいは何もできないのではないかと思ってしまいます。というか、想像ができません。
 下手をすると、「キュアップ・ラパパ、モフルンの腕よ、直りなさい! やったー直った、良かったね!!」で済まされてしまいそうな気すらする。てか、多分これ正解だわと書いていて思えてしまったのが、すごく悲しい。
 モフルンはグッズです。そういう、ぬいぐるみを直すといった部分に踏み込むのは難しかったのでしょう。だからこそ、みらいの設定はつまずいているのです。
 実際、残酷なこと書きますが、映画でモフルンが動かなくなったときも、みらいにできたのはそれくらいでしたからね。ただ、こちらはそもそもモフルンが動けるか動けないかと言う話になってしまうので、別問題なのですけど。なお、動けるか動けないかという書き方をしている理由は、モフルンは最初から意識自体はあったものとして作中で描かれているからです。一応、補足。
 49話で、モフルンには1話の時から意識があったんだね! とか書くのは、作品をしっかり見ていなかったことの証明になってしまうので止めましょう。

 また、前にも書きましたがみらいは非常に男性的なキャラクターだなと思います。というか、女の姿をした男です。むしろ本当にそうなのではないかとすら思っています。
 どうして、と問われると「何となく」としか答えようがないのですが、そう感じてしまっている自分が居ます。

・まほプリに流れている空気について
 まほプリにはある種の危うさがあると思っています。
 それは、「雨が降っていたから、傘立てにあった誰かのビニール傘を借りた(体で盗んだ)。でも途中で雨が止んだから、邪魔になったので道端にポイってした」みたいな危うさです。
 そういうことを、「傘くらい良いじゃん」みたいな感じでやってのけそうな、そんな空気が今作にはあると思うのです。
 こういう価値観って普段の生活では実を言うと、何気ない事になってしまいがちです。私は傘を盗んだりは絶対しませんが、きっと何かで「〜くらい良いじゃん」という行動は取っているに違いない。それは仕方ないことだと思います。
 ただ、作品という形に落とし込むと、そういう考えはどぎつく主張しだします。
 気になる人には、耐えがたいほどに気になる要素になります。でもきっと、気にならない人もいるのです。

 まほプリ以外にも、筆者は「四月は君の嘘」という作品で、こういう要素を見たことがあります。その作品を絶賛している人は、筆者が気になった部分を全く気にせず、「感動した!」と言っていたからです。
 しかし筆者はその感動の要素が、上記の価値観の元に成り立っていることが、許せなくなってしまうのです。まほプリが苦手で、「四月は君の嘘」を好きな方には申し訳ないですが、筆者にとっては類似した作品として数えてしまっています。
 気になった箇所をテキトーにピックアップしてみましょう。主人公の友人がガラスを割っておとがめ無し、主人公もそのことを責めない。主人公の友人が図書室から本を盗んできておとがめ無し、主人公もそのことを責めない。主人公がヒロインに渡せなかったカヌレというお菓子を、感傷に耽った様子で猫に食わせる。こういう描写のオンパレードです。終始これ。
 こういう作風を、恐らく、「キャラクターの感情本位」というのです。キャラクターがしたいと思ったことをさせる、その事で起こる影響は考慮しない。そんな描き方。
 しかし、作画や演出は超弩級でした。くっそ気合いが入っていて、圧倒されるほど。ある種、その演出力でごまかし通してすらいる。マンガが原作なので、そっちではここら辺をどうやってごまかしたのか、疑問に感じたほど。
 まあ、考慮した上で無視するか、考慮がそもそもできなかったかは、雲泥の差があるのでしょう。
 ちなみに個人的にはまほプリも「四月は君の嘘」も、後者です。

 ただ、まほプリは加えて、不誠実だったなとも思います。
 描かれた記憶のないものが描かれたことになっていた時は、さすがに頭が痛くなりました。そして、やってしまったなとも、思っていました。一話一話を欠かさず見ている人への、裏切りだなと。
 過去を捏造してしまったまほプリは、その後に描かれる本当の回想すべてに対して、説得力を持たせることを放棄したのです。
 個人的に、信頼を失うような描写をしてしまった作品は、劇的にその価値を失うと思っています。

 ……あー、一応筆者のスタンスを書いておきます。
 まほプリ、それでも前述の通り楽しもうと努力していました。感想を書いていて、何度も気持ちをリセットさせる宣言を書いていたのは、そのためです。それでもやっぱり、駄目だったわけです。
 けれど、この「楽しもうとしていた」という大前提がある事は、筆者にとって重要なことでした。元々筆者の考え方自体が、「どうあろうと作品を楽しめた人が勝ちだろう」と思っている所があるからです。
 このブログって、幸い、筆者に共感して下さっている方がコメントをくださっている状況にありました。それは、とても嬉しく、ありがたく感じています。同じように感じていた人がいたのだなと、安心感を頂いていました。
 ただもし、ここで例えば「まほプリのことをけなさないでくれ」というコメントが書かれたら、筆者はその方へ普通に謝ります。それで、「楽しめない人間が書いている駄文だと思って、鼻で笑って下さい」と書きます。
 その方が波風が立たないからというのも、当然あります。けれどそれ以上に、上記の「楽しめた人が勝ち」と思っている所があるからです。
 それでまあ、理解し合えないだろうから、棲み分けて互いに近付かないようにしましょう。と、提案します。人には、どうあったって楽しくて仕方ない物があります。逆に、どうしても楽しめない物もあります。
 筆者にとって「楽しめない物」はまほプリだった。でも逆にある人にとって、まほプリは「楽しくて仕方ない物」だった。それだけの話だろうなと。
 確かに、まほプリには個人的に納得のいかない描写が多々ありました。けれど、そこに頭を悩ませるより、楽しめた方が素敵なことは確かです。……それでも、もやもやはしますけども。子供が居ないくせに、みらいの行動は子供に悪影響を与えるのではないかなんて、偉そうなことも考えました。そんな心配、色々な意味で無用なのに。
 ただ、頭捻って数時間かけて「つまらなかった、倫理観が欠如していた」という感想を書いていた人間が、「勝っていない」ことだけは確かだろうなとw
 色々文句を書いたところで、筆者は楽しめないなりに藻掻いていただけなのだろうなと、そう考えています。楽しもうとして、溺れまくっていた気もしますが。
 そんな感じのスタンスでした。無駄話すみません、終わります。

・戦闘描写について
 何がしたかったのかわからない、中途半端な物だと感じていました。
 恐らくは、「人の形をした敵と戦うときは、直接殴られたり蹴られたりしている部分を映さない」ということをしたかったのではないか、みたいなことを考えたことはありました。
 31話でのラブーとの最終決戦、ラブーからの攻撃は軒並み、殴り飛ばされた結果だけ描写されていたからです。
 ただ、ガメッツとの戦闘では、そのように気を遣っているようには思えませんでした。なので、一貫した方針ではなかったのだと見受けられます。
 だから言えることは、ゴテゴテしたデザインは戦闘を描くのに苦労するよね。としか書けません。
 「そもそもの筆者の立場」で書きましたが、敵が民間人に直接被害を与える描写も描かないようにしているのかなと考えていたこともあったわけです。しかし、それもベニーギョが破ってしまったので、今作の戦闘描写の基準はわからないとしか書きようがありません。
 ただ、気合いを入れていなかったのは確かだったと思います。映画を除いて、体重を載せたパンチと言った描写を今作はしていなかったからです。
 じゃあ日常描写に力を入れていたのかというと、個人的にはノーと言いたいところですけどね……。

・キャラクターデザインについて
 個人的に自分は今作のキャラクターデザインを良いとは思いません。絵心が無いので詳しいことは言えませんが、キャラクターの性格が見えてこないからです。
 性格を表したような見た目をしているでも無く、性格とのギャップを示しているのでも無い。
 そんな、キャラクターのどの要素に対しても結びつかず、ただ見た目だけが良い。そんな物に、筆者は魅力を感じません。そんな風に描かれた物を、可愛らしいとも思いません。というか、そういう状況にある物は「見た目が良い」と評価してはいけないとすら考えます。
 ただ、華やかだとは思うので、そういう意味ではデザインを活かせなかったということになるのかも知れません。
 メチャクチャ偉そうですが、奇譚無く書くとこうなります。
 キャラクターデザインに関して、上手く描かれているのはジュンくらいでしょう。彼女だけは、しっかりとデザインと性格とが結びついているように思います。

 というかここら辺って、キャラクターにどのような動作をさせるかと言った部分も重要になると思います。要は、作中の描き方によって、キャラクターデザインに合わせていくようにすべきなのではないかなと。
 そういうところでも、「このキャラクターらしい」と感じる行動や仕草が、まほプリは異常に少なかったと感じました。
 キャラクターの性格とデザインが、互いに身を寄せ合おうとせず、反対の方向へと向かっていった。みたいな感じでしょうか。
 それでもリコとことはに関しては、みらいと比べれば、まだ「らしい」方だったとは思いますけども。

・モフルンのこと
 売れた理由は、正しくテディベアだからという言葉以外無いように思います。むしろこれで売れなかったら、嘘でしょう。
 少なくとも日本にとって、テディベア関連は一大コンテンツと言えます。筆者の記憶を辿っても、ウェイトベアだったり、365日のバースデーテディだったり、ディズニーのダッフィーだったり、クマのプーさんだったり、枚挙に暇がないからです。
 だから、それをグッズにすることを着眼した点は、まほプリのすごいところだなと素直に思います。盲点と言って良いでしょう。
 ただそのせいで、妖精が異世界からやってきて、妖精を救うために行動するみたいなことができなくなった。ということが、ストーリーテリングに影響を及ぼした部分があったかも知れないのかなとは、思います。

・後は無駄な考察にもならない殴り書き
 題目のままなので、読み流していただきたく。

○まほプリの作劇って何だったの
 よく言えば解釈を受け手に委ねている。悪く書けば、徹底的な説明不足。だから、受け手が好きなだけ妄想して、好きなだけ脳内補完すれば良いという話になってしまうのかも知れない。
 それでも物語の前半は、補完しきれない物だったのではないかと思ってしまいますが。ただ、ラブーを撃退以降であれば、最終回以外は脳内補完できる物ではあったろうなと。
 だから、それ以降に視聴を開始した人は、幸せ者だったのではないか、みたいなことは考えてしまったことがあります。

○「好きな理由はない」の狙いについて
 インタビューの際に、「みらいがリコを好きな理由はない」とシリーズディレクターが回答されたこと、その意図は何だったのか。

 好きな理由はないというのも、振り返ってみると意図がなんとなくはわかります。巧拙は度外視した話で。
 ゴープリとジャンルの違い的な意味で比較するとわかりやすいのです。はるかがみなみやきららに対して、最初に抱いた感情、ここが重要だと思います。はるかがみなみにバレエの練習を頼んだ理由も、きららがプリキュアだと嬉しいと思った理由も、彼女の憧れから端を発しているのです。
 ものすごく悪い書き方をするならば、みなみがお嬢様だから、きららが有名なモデルだから、はるかは二人に憧れたという話になる。恐らくまほプリという作品はそれを嫌ったのです。そういう、「彼女が○○だから」という、メチャクチャ悪く書くと損得勘定と呼ぶような感情を、友情に持ち込みたくなかったのです。
 だから「好きな理由はない」となったのだと思われます。ただ、やはり理由という物は必要で、どう足掻いたって人柄という部分を欠かすことができません。少なくとも筆者はそう考えます。そうでなければ、「あの人は私がいないとダメだから」といった、悪い意味での共依存になってしまう。
 まほプリはその部分の構築を、最初の5話で見事に失敗しているのです。リコは魔法を使えるすごい子だけど、みらいが惹かれたのはモフルンを助けてくれたことである。思い出せる限りで、描くことができていたのはここだけです。後は、リコが補習を逃れるためにズルをする子だったり、考えることよりもまず行動することが大切だとみらいに感化されたり、自分だけ魔法が使えずに腹を立てたり、みらいの助けになるようなことを描くことができていません。
 ただ、「みらいを助けてくれるから」っていうのもまた、損得勘定になってしまうと恐れたのだとも考えられます。でもですね、すっごく嫌な書き方しますけど、腹を立ててばかりでズルをして、自分の足らない部分をフォローしてくれることも無い、そんな人物を好きになるかというと、難しいようにも思うのです。だから上記で「人柄」という点を挙げているわけですが。あまり書きたくはないですが、残るは「容姿」だけになってしまいます。
 で、そうなるとみらいは男性的なキャラクターだとか、同性愛者なのではないかとか、邪推しなければいけなくなる。個人的には性的指向(嗜好じゃなく)をそのまま評価に紐づける気はないですけども。作品として面白いかがすべてで、その上で邪推はしちゃうよね、という感じですが。

 なお、ゴープリはこの点、逆の描き方をしています。憧れから対人関係を発して、そこから人格を掘り下げるという描き方をしています。みなみはお嬢様で、何でも完璧にこなす少し怖い人だと思ったけれど、実は違った。きららも、既に有名なモデルで、対人関係を蔑ろにする人物かと思ったけれど、それは仕事に真剣に取り組むが故だった。と言ったように。
 また、ゴープリは単純な理由に端を発することを肯定しています。はるかが「花のプリンセス」を目指すきっかけは「きらきら可愛いから」だったことですし、花恵がフラワーアレンジメントを夢見るようになったのは、はるかに言われたからです。
 なお、一応補足しますが、はるかは別に損得勘定で対人関係を結んでいるわけではありません。彼女は単に夢見る人たちの、夢に向かって頑張る人たちの味方なのです。

 これ、大前提として、どちらの描き方も好みはともかく間違ってはいないのだと言うことは書いておかないといけないと思います。
 ゴープリに関しては、最初の印象から変化するというのは、手法として意外性とかより関係が深まった証拠とかといった描き方をすることができる。それはキャラクターに深みを生みます。
 一方まほプリも、好きな理由がないということは、本来強烈な武器になります。それは、何があろうと好きだということです。好きな物に対して、どんな短所があろうとも、丸ごと飲み込んで好きだと断じる。それが描かれたとき、どんな反論もはねのけてしまえます。反面、好きであることのリスクは、より強く描き出さなければならない。個人的にまほプリは、そこでつまずいていると考えます。ただ、きっとスタッフの方々は描く気すらなかった部分だろうとも思いますけど。
 だから今、筆者の書いていることは的外れなわけです。

○「夢」について
 まほプリは実を言うと、この「夢」についてゴープリから更に一歩踏み込もうとしていた節があります。
 はるかは元々夢を持っていました。一方、みらいは夢を持っていません。また、リコは夢を持ってはいるものの、その夢は具体的にどういうものか、叶えたらどんなことをしたいのかと言う部分を悩むことになります。
 はるかやみなみ、きららは、みらいとリコが抱えたそのような問題について、実は悩んでいないのです。
 ですから本来はその部分について、掘り下げて描く予定だったと思われます。

 ただ、これらを描くことは非常に難しいと思います。物語の主人公が、夢を見つけられないまま話を進行させると言うことは、「何事にも興味津々で決めきれない」か「何事にも興味が無い」かのどちらかしかなくなる。
 無論、後者の性格を選ぶはずがないので、色んな事に目移りするキャラクターになる。そうすると、目移りし続ける様を延々流さなければいけなくなる。
 ですが今作にはある一つの足枷がはめられています。主人公たちが暗い表情を浮かべる様をあまり見せないようにしているのです。
 その結果、みらいは悩むことを封じられました。夢が見つけられないことを悩むこともできません。
 夢を決めきれず目移りばかりしている人物は、「一体お前は何がしたいのか」と糾弾されてしまいかねません。ただ、今作では暗い表情をさせられないため、そういった指摘はできなかったのではないかなと。
 それで話を収束させるために、最終話で申し訳程度に目標を示させて終わりということになったのではないか、と個人的には思っていたりします。
 まあ、それにしたって、目移りさせ続けるのは難しいことなのかなと。

 リコに関しては、みらいと比べれば描くことができた方ではあるでしょう。周りがどんな魔法つかいを目指しているのかという、比較も示していたと思います。ただこの点も、巧く描けていたかと言えば首を傾げます。
 リコの周りにいる人物が目指している物が、早速上で書いたことを否定しますが、軒並み「魔法つかい」ではなく、「魔法つかい」というくくりの別物であったからです。それは、教師や美容師といった「ナシマホウ界にも存在する仕事」として示されていたのです。
 仕方ないことではありますが、今作において魔法はナシマホウ界で言う、職人の技能と似たような物になってしまっている部分があります。そのせいで、リコの「魔法つかい」としての目標は、どこまで行っても暗中模索なのです。
 ですから極論、「夢」に関して言えば、「魔法つかい」という要素は邪魔でしかないのです。

 色々書きましたが、「夢を見つけた」をゴールにするのは難しいという感じです。

○「親」について
 まほプリは「親」の要素も無視できないように思います。当初は、夢や目標を叶えるための障害として描かれる予定であったことが窺えるからです。
 3話のこと、みらいが祖母に対して魔法学校へ通うことを打ち明けた際の一連の描写から、それが推測できます。この際、リコは暗い表情を浮かべていました。しかし後半に登場した両親は、その様に暗い表情をすることを裏付けるようなキャラ付けがされていません。むしろ、リコの理解者として描かれています。
 これだと、3話のことを考慮するなら、リコの独り相撲になってしまいます。みらいの「お婆ちゃんはいつも私のことを信じてくれる」という発言と、矛盾するからです。
 家族が、リコは優れた魔法つかいになると期待している。だからこそ、劣等感に苛まれた。その部分とは別問題の話です。

 これ、恐らく方針転換が図られた部分なのです。まほプリという作品は、プリキュアにおいて一つの挑戦をしようとしたのではないかなと。それは「親」を理解者として描かないことです。
 原則として、プリキュアの親は理解者として描かれます。あくまで彼女たちの目標を見守り、後押しする人物として描かれるのです。自分はスマプリから視聴するようになったにわかです。ただ、そのシリーズ以降も、再放送で見たフレプリもハトプリも初代も、親がプリキュアの障壁として描かれた記憶は無かったように思います。
 だから3話を見た当初は、もしかするとリコを通して、「良くない親」を描こうとしたのかも知れないと思っていました。そして、やはり止めたのかなと。
 まあ、単に表現不足で、元々家族の期待に応えられないプレッシャーを描いていただけということも考えられますけどね。

 ちなみに、歴代シリーズで描かれた記憶は無いと書きましたが、描こうと試みたことが無かったわけではないようです。
 ハピプリでは、めぐみの母親は病弱な人物として描かれていました。それは明らかに、ひめの大願「国を救うこと」を叶えようと言うときに、体調の悪化という形で障害となる予定だったように思います。と言ってもこれも、めぐみの母親が自分の意思で邪魔立てしようとしているわけではないので、かなりマイルドに描かれているようには思いますが。
 もしこの推測が当たっているならば、かなり踏み込んだことをしようとしていたように思います。描かれなかったので、本当に描こうとしていたかはわからずじまいですが。

 なお、ここら辺の「親による障害」の部分、実はドキプリやゴープリが間接的にではありますが描いています。
 ドキプリでは、ラスボスがレジーナの父親で、レジーナがマナの傍にいたいという思いを妨害していました。ゴープリでは、ディスピアは三銃士の生みの親であり、トワの育ての親でもあります。そして、その立ち振る舞いは「悪い親」の隠喩でした。
 ゴープリのディスピアの描き方を見ると、まほプリのリコで何を描こうとしていたのかが僅かながら推測できるように思います。ディスピアは自分の理想通りに動かない三銃士やトワイライトについて、切り捨てるような発言をし、まるで所有物のように扱います。
 もしかするとリコの両親も、ディスピアのように「立派な魔法使い」になることを強いて、リズとの優劣を突き付けるような人物として描かれる可能性があったのかも知れません。まあ、それはさすがに話が重すぎるので、そもそも筆者の妄想と言うことになるのでしょうが。

○テーマ「手を繋ぐ」について
 単刀直入に、失敗だったと思う。知らない人同士と仲良くなる、といったニュアンスで描かれたから、特にそれを感じました。
 これを掲げてしまったなら、敵に対してもその考えは及んで然るべきだと、筆者は考えてしまいました。ただ、今作は「敵を倒す」ことも、目標として掲げています。
 このことが、作品を作る上での致命的な構造的欠陥になってしまっていたと思います。
 その対処が、敵だけを「手を繋ぐ」対象から外すことでテーマの完遂を目指すというものだったのでしょう。ただそれはやはり、歪な描き方だったと言わざるを得ません。

 その上、終盤になるとその敵の扱いも二転三転するので、「手を繋ぐ」というテーマなんて有って無いような物になっていたと思います。バッティとヤモーとの和解が終盤で描かれますが、ただそこにあるだけ、と言った印象でした。
 上記の闇の魔法つかいの扱いが、終盤に変化したという点を抜きにして考えたとします。すると、手を繋ごうとしても、わかり合えない相手がいることを示したかったと、考えることもできるのかも知れません。
 ただ、そう考えたとしても、わかり合えないことを証明するだけの問答を、みらいたちは敵としていないのです。
 みらいが歩み寄ろうとしても、ことごとく敵が踏み躙ってくるだけの外道だったら、もう少し違う印象を持ったのかも知れません。

○まほプリの世界観について
 前述の通り書く価値を感じないので、時間を割く気が起きません。
 ただ、後出しジャンケンが過ぎたなとは思っていました。魔法学校が常に春という設定がでたり、男子生徒がいることが判明したりするのが、さすがに遅い。
 それと、魔法商店街の描写があまりにも少なすぎます。

○まほプリを見て良かったこと
 この際正直なことを書きますが、ゴープリの次回作がプリアラだったら、ゴープリを見返すことはしなかったかも知れません。そういう意味では、ゴープリに思いを馳せる、良い機会になったのではないかと考えています。
 ただ、あくまでその二つの作品は、頭の中で完全に切り離して扱っていました。
 例外として序盤は、「今度は夢の部分について、そこを掘り下げるのか」といった見方をしていたので、そういう意味では比較していましたけども。

 以上、筆者はまほプリという作品が合いませんでした。という結論を長々と引き延ばした文章となります。
 とりあえず、書きたいことは粗方吐き出せたと思います。
 殴り書きになっていて読みづらい文章となっておりますが、気が向いた部分だけ読んでいただけたら幸いです。


2017年2月23日追記: 
 そう言えば書き忘れていたことを。
 ことはの存在って、何気に恐ろしいよなと。
 ことはは世界を見守っていたラパーパの力を受け継いでいます。
 そのラパーパは、二つの世界が一つになったとき混乱させないようにできる。つまり、記憶すら改竄する力を持っています。
 最終回ではそんな彼女が、みらいとリコのことを見守っていると言う構図ができあがっているわけです。
 これもう、何でもありじゃないかという。この事実に喜べるかどうかが、今作の好き嫌いに大きく関わってくるのではないかなと。
 筆者はまあ、ノーコメントで。




魔法つかいプリキュア! Blu-ray vol.1

 ※上記以外の物でも良いので、リンク踏んで何かを買っていただけると励みになります。



過去感想は下記より
アニメ感想:2016年秋期まとめ