※プリキュアに関してだけでなく、色々な作品のネタバレあり。
 また、筆者はゴープリ信者であり、まほプリを楽しむことができていない人間です。まほプリに対して批判的なことも書きます。というか、自分が苦手に感じている別作品のことも槍玉に挙げます。
 そういう物が耐えられないという方は、読むのを遠慮された方が良いと思います。
 ……あんまり酷い書き方をしないようには心掛けます。


 アニメージュ増刊号のこと、書きます。
 今頃!? というツッコミは正にその通りなのですが、時間がなかなか取れなかったのです。
 とりあえず、色々とプリキュアの他作品のことも、気にせず含めて書いていきます。
 なお、本誌には、2016年3月号から11月号までの内容も再録されていました。それについては、別記事にて書いていこうと思います。一つにすると長いと言うこともありますが、正直なところ労力的な都合もあります……

■キャラクターデザイン宮本絵美子さんインタビュー
 ダイヤスタイルのパール上のヘアアクセサリーや、腕や足にブレスレットは、実は全部宙に浮いているそうです。魔法の力で。
 気になったというか、感心した部分はその一点。絵の描けない自分でも、動かすには大変そうなデザインだなと、個人的に思う程度。後は、フィギュア化とかは度外視だったのだろうなと、そんなことを思うくらいでしょうか。宙に浮いている物をフィギュア化するには、透明な樹脂でも使って固定するしか無いのだろうと思うわけで。でもそうすると、見た目に影響しそうだとも思う訳で。

■シリーズディレクター三塚雅人さんインタビュー
・水着回について
 今作については、水着回の是非はなかったとのことでした。前作ゴープリでは、チャレンジしようというシリーズディレクターの明確な意思があったとのこと。今作では、海へ出かける話を作ることになったから、普通に着せたという話でした。

 これはもう、前作ゴープリの頑張りと捉えるべきなのでしょう。気にしなくても良い下地を、前作が作ったのです。そして現在2017年に放映中のプリアラでも、水着を描けるようになっている。良いことなのだと思います。
 当時、前作の制作に関わっていて、しかも水着回の演出を担当された方だから、両側の状況が話せる。そんな貴重な方なのですよね、実は。三塚雅人さんって。

・補習メイトについて
 4話(補習で紙の蝶を探す話)と28話(花火の花を探す話)は対比となっているとのこと。そこで、補習メイトの成長と、みらいとリコの絆の成長を対比させたのだそうです。
 そのために、補習メイトは以前からの成長を描き(絨毯の免許を取っていたり、メモを取るようになっていたりですね)、みらいとリコは離れ離れになったときに互いを信じられるようになっているよう描いたのだとか。

 その狙いは、正に的確だったと思います。そして、その狙いは一部、「補習メイトの成長」という部分については成功していたと思います。今振り返ってみれば、と言う感じ。みらいとリコについては、その狙いが上手く描かれていたかと言うと、口を噤みますが。
 詳しくは当時の感想を読んで頂ければ。
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4話「魔法の授業スタート!ふしぎなちょうちょを探せ!」
28話「魔法界の夏祭り!花火よ、たかくあがれ!」
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・レインボーキャリッジについて
 ここら辺は、おもちゃとして販売することの紆余曲折と、制作が描きたい物とのせめぎ合いを感じることが書かれていました。単純に興味深い内容となっています。
 さらっとまとめます。
 ○29話で登場、31話で必殺技披露という予定(確かにその通り)。29話は必殺技披露では無く、ピンチからの逆転を31話に持ってくるためギャグ回に。
 ○探しに行くという形にはせず、「三人が何かの力を送ったら、それに呼応して生み出される」と言う形にしたかった。
 ○馬車は元々、宝石箱の予定だった。馬車になったため、宝石箱は使用できなくなった。その結果、リンクルストーンと結びつけられなくなった。
 ○馬車はモフルンが上に乗る必要があり、大きさが指定されていた(そのため、必殺技の表現まで制限がかかっている)。モフデレラ回で「冷凍ミカン→通常サイズの馬車→レインボーキャリッジ」の形にできたのは、夢オチと必殺技のお披露目回ではなかったという条件があったため。
 ○冷凍ミカンが重要なアイテムになったのはたまたま。「リコは魔法の実技が苦手」ということを説明するために使用したことがきっかけで、思い出のアイテムになった。冷凍ミカンになったのは、「汽車と言えば冷凍ミカン」という発想で使用したことから。最初にアイデアを出したのは村山功さん、初稿段階で冷凍ミカンが書かれていた。
 ○31話はリコが「立派な魔法使いになる目的」、ことはが「自分の力」について悩んでいた。そこに、みらいの「魔法は素敵だ、みんなと仲良くしたい」という素直な気持ちによって元気になると言う展開。

 ここら辺を読んでいると、実はモフルンって今作における要であり、最大の短所でもあったのだと思います。
 モフルンが馬車の上に乗るために、作中のサイズも厳しく制限されているとか、表現の幅が狭まりに狭まります。その点についてはもう、気の毒な状況だったのだなと思います。
 ともかくレインボーキャリッジが手に入る過程については、今を思えば特に書くことは無いのです。当時も比較的面白かったと書いていた回だから。その回に重要なアイテムが手に入っているのだから御の字でしょう。

 ただ書くことがあるなら、プリアラの新しい武器を生み出す方法でしょう。一応、まほプリのレインボーキャリッジが生み出された理由を発展させた形になっていたのですね(プリアラはキラキラルを元に、変身アイテムも武器も自分たちの手で形成します)。

 まあここについては31話が全てです。筆者は、「みらいの素直な気持ち」によって、リコやことはが悩みから立ち直る描写に違和感しか感じられなかった人間でしたから。
 31話は文章にあからさまに怒りが表れているので、今読むと笑えます。……今思うと、どうしてこんなに激昂していたのかと思います。
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29話「新たな魔法の物語!主役はモフデレラ!?」
31話「結晶する想い!虹色のアレキサンドライト!!」
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 というか最終フォームって元々、ミラクルとマジカルの足がリボンで結ばれている案が出ていたんですね……。そしてそれがボツになった理由が「子供が真似をしたら危ないから」。
 ……なんか、赤裸々に、価値観のズレを感じます。百合的だから引くとかじゃなく、あからさまにベタベタし過ぎだろうという意味で。
 目に見える形で仲が良いように見せていないと安心できませんって示されているみたいで。それが成長の証である最終フォームで使用されるっていうのに、妙な感覚を覚えるのです。
 最終フォームはみらいたちの力で生みだしたものである、だから、彼女らの心象が顕現している。そのため、より心の繋がりが強固になったことが最終フォームとして顕れたのだ。とか、そういうことを感じ取れば良いのかもしれません。

・校長の年齢は4桁
 そうなんだ、と言う印象のみ。

・リコの母親リリアの性格があっけらかんになった理由
 父親のリアンとの話が、家族のお悩みの話になった。だから母親との話は明るい内容にしたかった。だから、リリアの性格は明るい性格になった。ということでした。
 リコやリズのしっかりした性格は、父親譲りなのかも知れない。とのこと。

 ……うーん。とりあえずここら辺、母親が明るければ明るいほど、どうしてリコは初期に追い詰められていたのかという話になってしまうのですよね。結局リコは自分自身で精神的に追い詰められていっただけだった、そんな結末になっているわけですから。
 着目すべきは40話の感想で自分が書いた内容ですね。まさか性格が、展開の都合で決められていたとは恐れ入った。
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性格云々は抜きにしても、展開の都合にキャラクターを合わせていると言う印象を受けてしまいます。確かにリリアは料理研究家だという前置きはありましたけど、ナシマホウ界で活動している展開は、あまりにも予想外が過ぎました。これは、自分が穿った見方をしているせいなのでしょうか。
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 リンクは下記。特に40話の感想は、そもそも補習の描写は要らなかったとか書き出していて色々容赦ないので、読んでみると鼻で笑えるかも知れません。
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 33話「すれ違う想い!父と娘のビミョ〜な1日!」
 40話「愛情いっぱいのおめでとう!リコの誕生日!」
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・魔法界とナシマホウ界に起こったことの設定
 ここら辺について発言されていましたが、作中示されていたこと以外に思うところは無いです。とりあえず、作品を深く知りたい方向けの内容だったようです。

・ゲスト声優について
 元々カボチャドリのエピソードに含める予定はなかったそうです。急な予定変更、気の毒だったなと思うのみ。

・チクルンは完全な悪ではない。悪ガキ程度であり、まだ後戻りできるキャラクター。
 そういう意図であることは本編で十二分に伝わってきましたが、それが上手く機能していたかどうかは考え物です。それだけの話です。
 ひとまず、チクルン初登場から後戻りするまでの感想載せておきます。
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36話「みらいとモフルン、ときどきチクルン!って誰!?」
37話「魔法が決め手?冷凍みかんのレシピ!」
38話「甘い?甘くない?魔法のかぼちゃ祭り!」
39話「今日はハロウィン!み〜んな笑顔になぁれ!」
40話「愛情いっぱいのおめでとう!リコの誕生日!」
41話「ジュエリーな毎日!魔法学校へ放課後留学!」
42話「チクルンにとどけ!想いをのせた魔法のプリン!」
43話「いざ妖精の里へ!あかされる魔法界のヒミツ!」
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・みらいの夢は「将来○○になりたい」ではなく、「みんなを笑顔にしたい」という抽象的なもの
 ここら辺、興味深いことが書かれています。
 リコとみらいは世界を繋げたいけれど、それは完全に一つにすることではなく、「それぞれの良さを保った状態で繋がる」ということなのだそうです。交通機関と言ったインフラ整備ではなく、精神的な繋がりによるものとして、なのだそうです。人と人の輪を繋げると言う意味合いで。
 だからみらいの目的が、上記のようなものになると。そして、デウスマストによって世界が一つになったとき、このままではいけないと言い出す理由がこれだったのだなと。納得。まあここって、みんなの命も天秤にかけられているので、「今そこを気にするのか……」と困惑させられたわけですが。

 ……とりあえず、49、50話はその方針と逆らっていますよね。としか書きようが無いです。じゃあリコが再会したら意味ないじゃん! カタツムリニアが開通しちゃったら意味ないじゃん! ことはが強大な力で魔法界とナシマホウ界を近付けたら意味ないじゃん! と言う感じでしょうか。思い出すだけで脱力してきます。
 こんなとき、あらすじを書いていたことが役に立ちますね……。
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49話「さよなら…魔法つかい!奇跡の魔法よ、もう一度!」
50話(最終話)「キュアップ・ラパパ!未来もいい日になあれ!!」
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・魔法は家電と同じであり、だからこそプリキュアの魔法はすごいということになる
 前に書いたので省略。とりあえず、プリキュアの戦闘も基本的は肉弾戦であり、魔法はその物理を補助する物であると言うことが示されました。要は拳の周りに魔法が、だから巨大な敵も殴ることができると言う具合です。
 この設定自体は失敗ではなく、扱い方に失敗している。というのが筆者のスタンスです。詳しくは下記(別リンク飛ばしまくりでごめんなさい)。
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Febri Vol.36の「魔法つかいプリキュア!」インタビューを読みました。+思うところの雑記
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・まほプリでは漫符やギャグ顔は多用しない方針。
 「><」とか「^ ^」とかのことですね。そういう物を使わずに、土台のノーマル顔から表情を作るようにしたそうです。それが、キャラクターを大事にすることに繋がるはずだと。
 個人的には、失敗だったと思います。
 表情の表現にたっぷりと枚数をかけられるのであれば、その方針で良いと思うのです。プリキュアの映画とか。ただ、プリキュアって一話の枚数が制限されているわけで(原則3000枚ですよね、確か)。その中で、明確な記号が使えないことは、苦心の連続だったのではないかと思うのです。
 物語の後半になると、スタッフの方がキャラクターを把握されたために表情も(比較的)わかりやすくなったのですが、序盤は本当に登場人物の感情がわかりづらくて……。肝心の序盤でそのつまずきは、作品に悪い影響を与えたのではないかと思います。

■映画キュアモフルンについて
 特に気になった点はありませんでした。とりあえず、本編のスタッフの方々が大切にされていることを汲み取って、映画を作り上げたという話をしていたのが印象的。
 また、監督曰く、まほプリのシリーズディレクターへの恩返しという意味合いもあったと言うことでした。前述したとおり、まほプリのシリーズディレクターはゴープリの演出も担当されていた方です。そのことに対しての、ということでした。
 とりあえず、ここら辺の部分については、まほプリの本編を楽しめなかった自分が何かを書く資格は無いと思います。個人的には、映画キュアモフルンは独立した作品として考えると面白いと感じたと、それだけ書きます。

■まとめ
 以上。再録以外の部分の「魔法つかいプリキュア!」の記事で気になった部分を書きました。
 大体はこの一言に集約される感じがしました。「浅慮」。
 各話ごとの狙い自体は、ちゃんと描いていたと思うのです。リリアを明るい性格にしようとか、レインボーキャリッジの取得はほのぼのとした物にしようとか、4話と28話を対比にすることとか。
 それが、全体を通しての配慮まで及んでいなかったのではないかと思うのです。
 リリアを明るい性格にしたことで、リコの劣等感がおざなりに片付けられる(と筆者は感じました)。レインボーキャリッジをギャグ回で取得させたことで、グッズとしての価値が薄れる。4話と28話を対比させたことで、みらいとリコが補習メイトと比べて成長することに説得力がないことが浮き彫りになった。成長の描写を怠ったことが強調された。
 今作はそう言った、かつての描写というものを示されたときに矛盾が生じることが多すぎるのです。そりゃあ確かに「みらいとリコは日常の中で信頼関係を築いたんだよ」とか「描かれていないところで魔法の勉強もしっかりしていたんだよ」とか、考えることもできるのです。脳内補完ですね。ただ、それをまほプリに対して行おうとすることは、得策ではないと考えます。一話につき一つか二つ、程度ではないからです。
 「図書館の立ち入り禁止区域である知識の森に無断で入ったり、補習中勝手に先生のそばを離れたり、登るなと言う木を飛べばいいとか言い出したり、そういう約束事を破った際は、描かれていないところでちゃんと謝っているんだよ(謝る必要がないとは断じて考えたくない)」とか「はーちゃんがリンクルストーンを奪われて泣いて謝っているとき、泣き疲れて眠るまで何もしなかったけど、エンドカードでフォローしている(筆者はエンドカードを本編の一部とすることに抵抗感があります)」とか「ベニーギョに町を破壊されたときみらいたちは何も反応していなかったけど、心の中では怒りを感じていたんだよ」とか、考えていくと切りがないからです。
 変な話そこまで頭が良い人ではないですから、ちゃんと描写してくれないとわからないのです。何か悪いことをしたら謝る描写が入っていたり、本編内ではーちゃんを励ましていたり、自分たちが過ごした大切な町を破壊された際には怒ったり。
 ともかくまとめると、その場その場で適した描写をすることには気を遣ったけれど、その描写が以前描いたものを否定していないかと言うことには考慮が不足していたのではないかなと。素人が生意気な書き方をしますが、そういう話になるのかなと思う訳です。


2019年5月3日追記:
 冒頭で「2016年3月号から11月号までの内容も再録されていました。それについては、別記事にて書いていこうと思います」などと書いていますが、これはもう、頓挫してしまいました……。
 忙しいのもありますが、まほプリにだけ時間を割いていられないと言うのが正直なところです。他作品の総括やらも書きたいという状況のためです。
 情けない限りですが、ここではっきり諦めたことを宣言いたします。申し訳ありません。



魔法つかいプリキュア! 2017年 01 月号 [雑誌]: アニメージュ 増刊

 ※上記以外の物でも良いので、リンク踏んで何かを買っていただけると励みになります。



過去感想は下記より
アニメ感想:2017年夏期まとめ